初めまして、ユウと申します。
九州出身で18歳で進学のために上京、アラサーとなった今は都内の会社で働くサラリーマンです。
…今の自分を文章で表現するとこれだけに集約されてしまうのが恐ろしいような悲しいような。
どんな人間が書いているのかは記事を読んで貰う上で大事なことだと思いますので、もうちょっと頑張って掘り下げて紹介させて頂こうと思います。
●誕生~幼少期編
ちょっと掘り下げるとか言いながら誕生まで遡ってしまいました。ええ、アホです。
まあ自分は超特殊な経歴とかがあるわけでもない一般人なので、このレベルまで振り返らないと情報量が少なく薄い自己紹介にしかならないんですねえ。なので人間性を切り売りしてコンテンツを作ることになります。
結果半生を振り返ることになるので、見る人が見れば多分個人を特定できてしまうと思われます。僕を多少でも知っている人であれば。
前置きはこの位にして、誕生。僕は九州の熊本で生まれました。1990年代半ばのことです。
父は会社員、母は専業主婦。裕福では決してなかったですが、生活に困るほどではありませんでした。
今となっては共働きが多数派で専業主婦はちょっと珍しいくらいですが、当時はその逆で母親が専業主婦の家庭もそこそこ多かったように思います。当時の記憶が鮮明にあるはずもないので、今になって振り返った感想なんですけどね。
その頃にはとっくに社会は不景気に突入していたはずなんですが、それでも今に比べれば好景気の名残があって、希望もあったのでしょう。後に失われた30年なんて言われるようになるんですけどね。草。
話を戻して、誕生時の記憶があるような特別な人間ではないので幼少期の最初の記憶なんですが、母に手を引かれて幼稚園の敷地内を歩いているのが思い出せる一番昔の記憶でしょうか。特に意味のある風景ではないですが。
感情として思いだせるのは、とにかく幼稚園に行きたくなかった事ですね。いつも泣いて嫌がっていたように思います。親も連れて行くのに苦労したと言っていました。
幼稚園なので拘束時間(?)は午前9時~午後3時くらいまでで短く、特に嫌いな人間が居たような記憶もないので何がそんなに苦痛だったのかは思い出せませんが、多分家で寝ていたかったのでしょう。社会不適合者の片鱗がこの頃から覗いています。
やはり大人しいタイプの性格で、外で遊ぶよりも室内に籠っている方が好き。そういえば、工作がとても好きで謎の物体を量産していた記憶があります。N○Kの作ってワク○クが大好きでしたね。wkwkさんを信奉してました。今思えば完全にオタク気質な子供でしたね。テレビアニメや特撮も好きでしたし。まあオタクという言葉自体当時は今ほど浸透していませんでしたけどね。
とはいえ仲の良い同級生も居ましたし、行事やレクリエーションもそれなりに楽しんでいた記憶があるので、内向的で全くコミュ力が無いわけでもなかったようです。うーん、よくわからん。そんな幼少期でした。
●小学生編
さて、そんなこんなで普通に公立の小学校に通うようになります。
全校生徒は確か300人弱とかで、大体の学年が二クラス。なぜか自分の学年だけ4年生の時に一クラス(40人)になったりしてました。その時は教師がかわいそうだったなあ。
小学生に上がったと時を同じくして、自分の身長が周りに比べて低いことを意識するようになりました。人生初めてのコンプレックスです。
身長順に並んで大抵一番前でしたね。最近もあるのかなあ、このシステム。地味に子供の自尊心を傷つけているような気がするんですけど。
今となってはそれ程重大な事でもないんですが子供の世界は残酷で、しばらくの間このコンプレックスとは付き合い続けることになります。それでいじめられたりとかは無かったですけど、気にしますよね子供って。
運動はあまり得意ではなかったというか、どちらかと言えば苦手でしたが勉強はまあまあ出来てましたね。あんまり勉強で苦労した記憶がありません。テストとかも大体高得点でした。まあ小学校の勉強ですしね。
そんな感じでまあ普通に小学生をやってたように思います。普通に勉強して、普通に友達と遊んで、普通に卒業しました。
…あ、そういえば小4で入ったサッカー部は一年で辞めてたな。以降帰宅部。
あと夏休みのラジオ体操なんかもまともに行った記憶が無いですね。偶に早起きしても近所のクワガタやカブトムシが集まるクヌギの木に虫捕まえに行ってました。
思い出そうとすればもう少し色々あるんでしょうけど、人間としての転機になるような事は無かったはずです。
そんなのも含めて普通なんでしょうね。
●(暗黒の)中学生編
中学に上がりました。公立の中学校で、周辺の3つの小学校から生徒が集まってくる中学校でした。
僕の学年は確か80人くらいで2クラスでした。もう少し多ければ3クラスになる人数だったようで、教室の人口密度が高く非常に不快でしたね。腹立つ。
中学は僕の家から二キロ弱くらいの距離の場所で地味に遠くて、徒歩だったのもあって通学が非常に億劫でしたね。雨の日なんかは特に。もう少し距離があれば自転車通学になるという境界だったようです。ふざけんな。
そんな中学に上がって最初の頃に印象的だったというか、記憶に残っている事件があって。
入学して最初の登校の日、僕は近所に住む友達と二人で歩いて中学に向かっていました。
そして校門まであと300mくらいの時に、僕の前を歩く友達が思いっきり犬のウ〇コを踏んだんですね。
僕の目の前で。
入学したてで、ピカピカの学校指定の白いスニーカーで。
さらに悲劇なのが、それに気づかずスタスタ歩いていくものだから靴底にへばりついたウン〇が制服のズボンの裾に擦れてしまって、裾が〇ンコでべったり汚れてしまっていたんです。あっという間の出来事でした。
もちろん制服もピカピカの新品です。
これは今でも後悔しているし謎でもあるんですが、なぜ僕はその時すぐにそれを伝えてあげられなかったんだろう。
すぐに伝えていれば、友達は家に引き返して着替えるなり、そのまま学校を休むなりどうとでも出来たのに。
目の前で起きた一部始終にショックを受けてしまったのか、今となっては定かではありませんが…。
結局僕らはそのまま校門をくぐってしまい、その友達が自身に起きた惨状に気づいたのは校舎に入ってしまってからでした。
朝のHRが始まる前にその友達は姿を消していました。登校しているはずなのに居ないのでちょっとした事件になってしまったりして、その後下駄箱の裏で泣いているのを発見されました。
今思い出しても悲しい事件です。その友達には本当に申し訳ない。ごめんな。思えば僕の中学生活はこの頃から雲行きが怪しかったなあ…。
もう15年近く前なので今は色々と変わっているんでしょうが、僕の通っていた中学は異常に校則が厳しかった。
男子は短髪が強制で髪の毛が耳にかかってはダメだったし、学ランの前も襟元までキッチリ閉めておかなければいけませんでした。しかも、サザエさんのカツオ君が被っているような制帽があって、これも登下校の際は絶対に被っておかなくてはいけませんでした。
女子もロングヘアの場合は絶対に結んでまとめておかなければいけなかったし、膝立ちでスカートが床に着く長さでなければいけませんでした。
細かい規定は他にも爪とか眉毛とか複数に及ぶんですが、毎週『身なり検査』があってこれに引っかかると複数の教師に囲まれて詰められるというクソ制度でしたね。自由とか自主性なんてあったもんじゃない。
他にも、遅刻は初回だろうと頭をぶっ叩かれたり、掃除は床に膝をついて雑巾をかけさせられたり、
トイレに飴玉の包装が一つ落ちているだけで学年集会が開かれたり。
まあ意味の分からない厳しさみたいなのが至る所にあってとにかく最悪でしたね。
ちょっとしたことで揚げ足取りのように怒られ、人格否定され。
目をつけられた生徒が授業そっちのけで連れだされ、1時間以上説教されるなんてのはザラにありましたね。僕も経験がありますし。
そんな感じで生徒は綱渡りのような生活を強いられることになります。バランスを崩して落ちてしまうと説教地獄行の。
そんな中でも僕はそれなりに頑張っていたんですよ。成績も良いときは上位10%付近には居たし、部活(事実上運動部強制)も野球部でしたがそこそこ真面目に取り組んでいました。学校生活唯一の楽しみは読書でしたね。現実逃避するように学級文庫の本や図書室の本を読みまくっていました。
そんな感じでストレスを溜めつつもなんとか綱渡りを続けていました。…二年間は。
中学三年に上がってすぐのタイミングで僕は学校に行かなくなります。
きっかけは些細なことでしたが、いい加減限界だったのでしょう。溜めこんできたストレスは圧倒的な爆発力で僕を綱渡りから吹き飛ばしました。
という訳で、めでたく不登校となりました。
僕本人としては学校に行けないのではなく『行かない』という選択をしたつもりなので、不登校と言われるのは納得いかなかったのですが周りから見れば一緒ですよね。ハイサイまいど!
不登校の一年弱の間は自分の人生にとって非常に大きなターニングポイントとなります。
ストレスを溜めるばかりの学校生活から解放されて、自分の好きなことに思いっきり触れられる時間が出来たわけですからね。親は気が気じゃなかったでしょうが。実際親とは何度も衝突しましたが、最後は折れてくれました。
その頃の僕の生活は自由そのもので、何時間もPCで絵を描いたり、深夜でもかまわず外出したり、一日20時間くらいゲームをプレイしたり。
インターネットに初めてまともに触れたのもこの頃ですね。当時はスマホも無く今ほどネットは普及していませんでした。インターネットは、それまでの学校生活では到底見る事の出来ない景色を僕に見せてくれました。良くも悪くも。
あとは今でも付き合いのある親友二人と仲が特に良くなったのもこの頃ですね。この縁だけは、僕が死ぬまで大事にしていきたい物です。
そんな生活をしばらく続ける中、中学三年なので当然進路の話が出てきます。今の時代流石に中卒は苦労することが分かり切っていたので僕も高校には行こうと思っていましたが、現実として近所には行きたいと思える高校がありません。
不登校状態で成績もダダ下がりなので、今更頑張って勉強して進学校に行くという選択肢もありませんでした。
そんな中、親がネットで見つけてくれた高校の一つに学校見学に行くことに。後に詳しく書きますが、そのあまりの特殊さに衝撃を受け、そのまま推薦入試で受験。結果あっさり受かってしまい、僕の高校受験は終わりました。
進路が決まった後はそのまま不登校ライフを続けました。
当時アニメの『けいおん!』が大流行していて、それに触発された親友が僕をバンド(とは名ばかりの集まって楽器を好きに弾くだけ)に誘ってくれました。親友は僕がエレキギターを持っているのを知っていたので。
エレキギターは小学生だった頃に何に影響されたのかは思い出せませんが親に買って貰ってました。
中古屋で1500円の、音が出るだけのジャンクでしたけどね。少し練習して普通に挫折してましたけど。
そんなこんなで、親友含め友達数人と音楽を始めます。これが後の僕の人生を決定づける最大の要因になります。
一人では挫折したギターも、友達一緒に練習するのは本当に、信じられないくらい楽しかった。
田舎なので近所にスタジオがある訳もないので、親友の家の農機具をしまっておく納屋の二階を片付けて練習場所にしました。元が古い納屋なので当然防音も無ければ空調もない。隙間風やホコリも舞う。ドラムセット(親友が無理して買った)やアンプなどの機材もすべて自前。それでもそれぞれ色んな物を持ち寄って、ちょっとずつ充実した空間になっていくのが嬉しかった。場所を提供してくれた親友には感謝してもしきれません。
生ドラムを叩けるのも爆音でエレキギターを鳴らせるのも家と家の間隔が百メートル単位で離れている田舎だからこそ出来ることでしたね。当然メンバー全員が始めたての初心者なので演奏はひどい物でしたが。それでも誰かに強制された事ではなく自分たちでやりたいことを突き進めるのは楽しくて仕方がなかった。
暗黒の中学生編と書きましたが、結果それでも良かったと思えるくらいにはこの経験が今の自分を形作っています。
●高校生編
中学三年生の一年弱を不登校状態のまま終え卒業した僕は、無事?高校へ進学します。
ここで先に書いた特殊な高校について。
まず、その高校は自宅から距離にして70kmの場所にありました。
しかも、そこそこな山を行った先にある渓流沿いという立地。自宅から通うのは到底無理なので、高校まで6km程度の場所に下宿(普通の民家を間借りする)して通うことになりました。下宿費用は5万円(食事込み)。今思えば破格ですね…。だけど僕の家は裕福ではなかったので、その下宿費用は県の奨学金で幾らか賄いました。
そして何故そんな場所に立地しているのかという事ですが、その高校は元々農業高校の林業科の分校だったので、木に囲まれた山の中にあるわけです。農業高校自体は田舎だと結構有るんですけど、林業科は珍しいです。
勿論僕は林業を学びたかったわけではありません。僕が『特殊』と書いたのはなによりその学科の内容。
そこでは授業として普通の五科目の他に、キャンプをしたりカヌーやマウンテンバイクに乗ったり、渓流魚を養殖したり木工をしたりといった変なことをやっていたのです。公立の高校でです。10数年ほど前に新しく再編されて出来た学科でした。詳しくは泉分校で調べてみてください。
中3で『普通』のレールを外れた僕は、思い切ってそんな学校に通うことにしました。特に、何かを作る事が好きだった僕は木工の授業があることに惹かれました。
入学して下宿先への引っ越しを済ませた僕は、下宿の主のおっさん+一つ上の先輩(同室)+同級生二人と共同生活をしながら朝は自転車を6km程漕いで高校へ向かい、授業が終わったらまた自転車を漕いで下宿へ帰るという生活を始めます。
それまでは不登校状態だったわけですが、学校へ行きたくないとは思わなくなっていましたね。環境が人間に与える影響の重大さをこの頃に知りました。
さて、そんな高校なので僕の中学はおろか地元から行った人間は僕意外に居ません。僕の学年は一クラスで30人ほどでしたが、全員が県の内外色んな所から集まっていて、それぞれ違う事情や目的をもっていました。
それまで地元から出ずに見知った環境と人間のなかで育ってきた僕が、それまでとは全く違う環境と人間の中に身を置くわけですから、この時に自分の価値観というか世界が思いっきり広がりましたね。
本当に色んなタイプの人間が集まっていたので最初の方こそトラブルや衝突もあったものの、新しい交友関係が出来、無事新しい友達も出来ました。
授業も楽しく、充実していましたね。自然の中での体験学習的なものが多かったのもあって、中学時代に受けた傷は癒されていきました。
担任の先生もそれまで出会ったことが無い、生徒に必死で寄り添ってくれる素晴らしい人でした。色んなタイプの人間が多すぎてトラブルが絶えなかったので、生徒から受けるストレスは尋常じゃ無かったでしょうが…。今でも感謝しています。
そうやって平日は下宿先から高校に通い、週末になると地元に帰って親友と楽器を弾く(この頃には他のメンバーは都合が合わなくなり、親友と二人になっていた)生活を繰り返していました。
入学から半年ほど経ったころ、僕の身にトラブルが降りかかります。…まあトラブルというか完全に自分の身から出たサビなんですが、下宿での生活にストレスを溜めるようになっていました。
もともと実家で家族四人で暮らすのにも若干の息苦しさを感じるようなタイプで、それが下宿を選んだ要因でもあったのですが、下宿は下宿で他人との共同生活です。その息苦しさは家族の比ではありませんでした。当たり前の話です。アホだなあ…。
共同生活において僕が重大な不和を生んでいたわけではありませんでしたが、元がマイペースな性格な事もあって生活そのものを他人に合わせていくという事に多大な努力が必要でした。食事の時間、寝る時間、家を出る時間、自由な時間に取ることが出来る行動全てに制約が付きます。当時もギターを弾いていましたが、音が出るので特に周りに気をつかいます。当たり前の事なんですけど、僕には無理でしたね。単純に僕が駄目ってだけです。
そうしてストレスを溜めているとそれが顔にも出るんですねえ。僕の顔つきが良くなかったのか、下宿の主のおっさんと口論になったり、同室だった一個上の先輩ともギクシャクし始める始末。
そうしてそんな中色々考えた結果、僕は下宿を出る事にしました。
下宿を出てどうするのかって話ですが、通うしかないです。片道70kmを。
一人暮らしも考えましたが、高校生一人では財力・生活力ともに厳しいこと、そもそも学校で一人暮らしは禁止されていました。まあ学校の周辺に一人暮らし出来る賃貸なんて存在しませんでしたしね。当然アルバイトできるような場所も無いので生活費をバイトで稼ぐことも出来ませんでした。学校の立地が立地、田舎の中のド田舎でしたから。
10月頃、下宿を引き払って片道二時間半の通学が始まりました。
朝6時に家を出て最寄り駅(最寄りと言っても15kmある)まで車で送ってもらい、6時半の始発の電車に乗る。途中一度乗り換えを挟んで高校の最寄り駅まで行き、そこからバスで40分程でようやく到着。
今は分かりませんが、当時は朝一本しか高校に行くバスが出ていなかったので、それを逃すと登校自体が不可能でした。電車が一本でもズレたり、乗り過ごしたらアウトです。期末テストのタイミングでやらかしてしまい、試験を受けられず数科目が0点になったこともありました。
自業自得ですが正直ハードでしたね。朝早くに車で駅まで送らなければいけない親にも申し訳なかったです。帰りのバスは16時と17時の二本。当然部活をする程の時間的余裕もありませんでした。帰りは親も仕事があるので、よく祖父が迎えに来てくれました。感謝しています。
しばらくして原付の免許を取得して、バスの道程を原付に置き換えたので随分マシにはなりましたが、それでも通学時間が長い事には変わりがないので大変でしたね。
そんな感じで無駄にハードな通学をしていたわけですが、それでも学校自体は楽しかったです。気の合う友達と学校近くの川で遊んだり、これまた学校近くの標高が900m位の山に登って、頂上で野宿。3月でしたが放射冷却で気温が下がりまくって凍死しかけたりと、男子高校生らしくアホなことをしていました。
特に、後にマウンテンバイクのプロライダーとなるY君とは気が合って、よく一緒に居ました。彼の下宿先にお邪魔して遊んだり、ちょっとここには書けないようなことも一緒にしたり。今では連絡が取れなくなってしまいましたが、元気かなあ。
そんな学校生活と並行して、ギターはずっと弾き続けていました。家に帰ってからは毎日のようにギターを数時間抱えていましたね。土日には親友と集まって、当時ハマっていた9mm parabellum Bulletなどのバンドの曲をコピーしまくっていました。
あとは、長期休みの度に短期のバイトをして、そのバイト代でギター本体や機材を買うことを繰り返していました。学校生活以外ではギターが生活の全てでした。ギターに触ることが兎に角楽しくて、弾くだけではなくギターそのものを改造したり、ギター自体を木から自作したりもするようになりました。その頃から漠然と、プロは無理でもギターに携わる仕事がしたいと思うようになります。
そうしている間に、もともと何かを作る事が好きだった事もあって僕の夢はギター職人になることになっていました。
●転校、バイト生活編
高校二年生の三学期に入った頃から、本気でギター職人を目指そうと思うようになります。
そのためにも、東京にある専門学校に入りギター製作を学びたいと思いました。
しかし、僕の家は裕福では無かったこともあって、上京するにしても資金がありません。アルバイトをして資金を溜めるにしても、長距離の往復で一日の多くの時間を消費している以上それも難しい。
考えに考えた結果、僕は通信制の高校への転校を決意します。長距離通学がいい加減しんどかったのもありますが、アルバイトをして上京する資金を貯めるためです。
転校先の高校は通信制で、年一回のスクーリングが5日間ほどあるだけであとは家で課題をこなせばいいので一日の大半をアルバイトに費やすことができます。
僕の場合は二年間全日制の高校に通っていたのもあって普通科目の単位の大半を取得していたので、より楽に卒業までの単位を取得することが出来るようでした。転校にかかる費用、学費は以前から借りていた県の奨学金で賄うことが出来ました。
転校する意向を高校に伝えたときには流石に引き止められました。あと一年で卒業でしたからね。けれど、最終的には先生方も僕の事を応援してくれました。二年間を共にしたクラスメイトも応援してくれました。その時に貰ったフォトブックと応援のメッセージが書かれたボードは今でも大切な物です。
そうして高校三年生に上がるタイミングから別の高校の生徒になりました。もう一つ付け加えると、地元の高校に通っていた親友も同じタイミングで同じ通信制の高校に転校しました。詳しい事は省きますが、彼もうまくいってない部分あったり色んな事情が重なった上での選択です。
お互いがそれぞれバイトしまくっている状態になったので、集まって楽器を弾く時間は減ってしまいましたがそれでもタイミングが合えば一緒に遊んだり、バイトの関係で新しい友達も出来たりしました。
さて、そんなこんなで一年ほどバイト中心の生活を送りながらも高校を無事卒業し、ある程度まとまった資金も得ることが出来た僕は目標にしていたギター製作の専門学校に通うために上京します。
ここから先、専門学校から社会人として働き始めるまでは別記事として書いていく予定なので端折りますが、
結果として僕は高校生の頃の夢を叶えていました。
それから紆余曲折あって今は違うことをやって生活していますが、こんな経路をたどって生きてきたことを思い出してみると今に繋がっていることが結構あったり。
かなり長くなってしまったのでここまで読んでくれた方はほぼ居ないと思いますが、これが今までの僕の一生です。
今の僕は、都内の小さな会社で働きながら埼玉県に家を建てて、妻と二匹の猫、それから爬虫類、両生類などの小さな家族たちと暮らしています。
趣味はバイクだったり生き物飼育だったりDIYだったり。ギターは今でもちょこちょこ触っていますよ。
このブログではそんな人間の日常から、誰かにとって役立ちそうなことを切り抜いて紹介していきたいと思っています。
ここまでお読みいただいた方、本当にありがとうございました!